【掲示板】11月の掲示板の言葉

今月は、プーさんの言葉とされている、この言葉を掲示板の言葉にさせて頂きました。

さよならを言うのがこんなにもつらい相手がいるなんて、僕はなんて幸せなんだ

「さよなら」を経験しない人はいません。

言う側か、言われる側かは、分かりませんが、必ずどちらかの立場に立ち、別れと出会っていかねばならないのが、我々の偽らざる現実です。

「さよなら」には、別れの悲しみ、失うことの寂しさが伴います。しかし、ここでの、プーさんの言葉は、その悲しみの中に、深い「幸せ」を見出しています。ここが大切なように思います。

そこには、別れがつらいと感じるほどの、かけがえのないご縁への喜びが伴っています。

私たちは、生まれてから死ぬまでの間、様々な方と出会い、様々なご縁を結びます。親、兄弟、友人、伴侶。そして、仏教を聴聞する道で出会う方々。その一つ一つのご縁が、私たちを支え、人生を豊かなものにしてくれます。

しかし、どんなに大切でかけがえのない相手であっても、必ず別れの時がやってきます。これは、私たちが生きる上で避けられない現実です。

なぜ、このような悲しみを伴う命なのでしょう。なぜ、寂しさを経験していかねばならないのでしょう。

この不思議な命について、実は、なんにも知らないのも、我々の本当の姿でありましょう。

そんな私を心配した存在を、仏様と言います。

たまたま仏様がいてどこかにいて、我々が救われるのではなく、私を救うために存在しているのが仏様であります。

仏様の一番の仕事は、私を救いとり、同じお悟りの存在にすることなのです。

別れに直面し、心が引き裂かれるようなつらさを感じる時、私たちは改めて、その方が自分の人生にとって、どれほど大きな存在であったかを思い知らされます。

このお慈悲の中の命であったと、居場所を頂く時に、その悲しみや辛さにも意味が恵まれます。

さよならとは、そのまま、その方の存在の大きさなのです。

この「つらい」という感情こそが、「私にとってそれほど大切で、幸せを与えてくれた人だった」という、感謝の裏返しなのではないでしょうか。

最後に、京都にある、仏光寺さんの法語を紹介します。

別れても
わたしの中には
あなたから
贈られたものが
はいっていた
悲しみの大きさは
贈られたものの
大きさだった

合掌


【ミズキコーナー】

続いて、上宮寺スペシャルボードアドバイザー、ミズキ氏のコメントを頂きます。

さよならを言うのが つらい人がいる。

それは、あなたの心が、 ちゃんと誰かを愛した証。

笑いあった時間、 交わした言葉は、 心をやわらかくしてくれる記憶として、 静かに寄り添ってくれます。

この別れを その人を想う気持ちごと抱きしめて、 少しずつ歩き出してほしい。

さよならのあとにも、 光は残っています。 その光を胸に、 また新しい朝を迎えにいきましょう。

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