【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉔~胸中より流出するもの~
前回は、「才市さん流の喜びの表現」に思いを巡らせました。
今回は、p108~「4-7_才市の信仰内容~胸中より流出するもの~」を読んでいきます。
すべてが悪だ虚偽だということは、ただ出まかせの宣伝だと考えられてはならぬ。また哲学者などが、一般的見地から見て、このように判断したものだと認定してはならぬ。
才市などいう「妙好人」所属の人達が、そのようなことを言い出すには、深くこれを裏づけている霊性的直覚の在るこ とに注意すべきである。彼らは何か真実なものを一つ攫んでいる、何かこれだけは、最高のもの、 無等等のもの、これで自分らの生存理由が立つと言い切り得るものを手に入れているのである。
それで、悪は悪でも、虚偽は虚偽でも、「あさまし」は「あさまし」でも、彼らは厭世家にもならず、 また悲観に沈んで朝から晩までめそく泣いてばかりいるのでもない。悪や虚偽をスプリング・ボールド(飛躍台)として、却ってそこから浄土の諸荘厳を描き出さんとするのである。如何に、口汚く他を罵り己を罵っても、根無し草のように、別にきょろりとした風景を胸の裏に蔵している。われらはこの点に最も留意せんことを要する。この境地に到らんことは、一朝一夕の事業ではない、多くの悪戦苦闘を継続しての後のことである。
前回の投稿で書きましたが、「悪」ということを前面に押し出す才市さんの詩がありました。
あくにあく、あくをかさねて、娑婆でもつくる。あさましいとわ、みなうそよ。
をそ(嘘)だ、をそだ、をそだ。
わしがなみなあくだ。(私のものは皆悪だ。)
えい(良い)もわるいも、みな悪だ。
それに続いての、鈴木大拙氏の言葉であります。
「悪」「嘘」と自らに問うその姿勢は、宣伝文句ではないのだと。
哲学者が頭で考えるような類のものでもないのだと言います。
そんな言葉を発することが出来る背景には、「生存理由が立つと言い切り得るものを手に入れている」と言います。
これは、浄土真宗の法話でよく使われる表現だと、「いのちの意味と方向性」ともいえると思います。
自らの命について、何も知らないままに生まれ、何もかも分かったかのような心で生き、気づいたら死んでいく、この不思議な命に対し、根本の立脚点を恵まれるのが、浄土真宗の喜びです。
「この命は、仏に成るべき命だったのか。どんな悲しみにも寄り添っていける存在になることを、仏様に願われていたのか。」
と、シンプルに回答できる人生は、豊かな生き方ではないでしょうか。自分よりも大きな、自分を包み込むほどの存在と出会い、自分の小ささを知らされながら生きていく人生、ともいえましょうか。
少し長いですが、才市さんの詩を載せます。
あさましや、さいちこころわ、あさましや。 妄念がいちどに出るぞ、にがにがしい。 悪のまぜりた(混ざった)火がもえる、 悪のまぜりた波がたつ、あさましや。
愚痴のまぜりた火がもえる、邪慳もの、あさましや、とどめられんか、さいちがこころ、くよくよと起る心を、たする(尋ねて)見れば、天にぬりこす(乗りこす)さいちのこころ、
ここに知識の御化導あり、
「これさいち、ここが、そなたの聞き場ぞよ。」
「ありがとをございます。」
「みだの本願、なむあみだぶが、できてから、 われ(汝)が案ずんことわない、 きけよ、きけよ、なむあみだぶを、ききぬれば、われ (汝) が往生これにある。 なむあみだぶわ、われ (汝)がもの。」
ごをんうれしや、なむあみだぶつ。 妄念の置場をきけば、 機法一体、なむあみだぶつ。 このこころで、十方微塵世界を、 仏や菩薩や親さまと、 遊んで居るか、このこころ。 なむあみだぶをたべて遊んで、 なむあみだぶと共に、日暮し。 御恩うれしや、なむあみだぶつ。
才市さんはよく、仏様と対話しながら詩を書きます。
生き生きとした、会話のような文章になっているのはそのためです。
「くよくよと起こる心」とは、自分のネガティブな感情や、寂しい気持ちのことだと思います。それが、心を覆いつくす時があることを、「天に乗り越す」と表現されます。「天にも昇る嬉しさ」という言い方はありますが、この私の煩悩も、くよくよの心もまた、自分の世界を覆いつくす時があります。しかし、そこで終わりません。
私もよく、ショボンとして、下を向く時があります。
そここそが、仏様の御化導、導きの場所だと言われるのです。
「これさいち、ここが、そなたの聞き場ぞよ。」
「ありがとをございます。」
「これ〇〇、ここが、そなたの聞き場ぞよ。」
「ありがとをございます。」
自分の名前を入れて読んでも良い文章ですよね。
今この場所こそ、聞き場でありました。仏様の躍動場所は、今ここの、私でありました。
私を除いて、仏様は、はたらかないのです。救いの現場は無いのです。
それを、浄土真宗の専門用語で「平生業成」(へいぜいごうじょう)といいます。
救いが定まるのは、死後ではありません。いまです。
救われるのが、今、なのです。これこそ、浄土真宗の眼目です。
前にもご紹介しましたが、その「平生業成」ということを、ねんごろに伝えてくださったのが、広島県呉生まれ、大阪の僧侶、稲城選惠和上でありました。



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