【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉙~世界はわしが、南無阿弥陀仏~
前回は、鈴木大拙氏の言う、「罪業感」について考えました。今日は少しだけその続きです。
罪業感というと、ネガティブな言葉に聞こえます。悲しい感じも受けますが、ここでは、普段思う、一般的な「罪」の話ではありません。
自分のことばかりを考え、自己中心の思いによって、自他を傷つける命であることを、「罪業」と言います。
自己中心と言う時、私が思い出す言葉があります。仏光寺の掲示板の言葉です。

心を込めて
草花を植え
怒りを込めて
雑草を抜く
草花のいのち
雑草のいのち
どちらも同じ
いのちなのに
花に区別を設け、「区別と差別は違う」などと軽々と言い放つ心の奥底に眠る、鬼の大きさに気づく人はどれ程いるでしょう。
「いのち」を、「いのち」として、見ることが出来ていない事実が我々にあるのでしょう。
その悲しみに向き合い続けたのが、浄土真宗を開いた親鸞聖人であり、また、妙好人として紹介される才市さんではないでしょうか。
だからこそ、次のような詩が生まれたのです。
わしのとんよくみなとられ、 せかいわわしがなむあみだぶつ。
貪欲(とんよく)とは、「もっと」「もっと」とむさぼる心です。
これが取られ、無くなるわけではないが、効力を失い、世界そのものが、南無阿弥陀仏でありました。と、喜びに浸る言葉です。
この転換に、鈴木大拙氏も驚いています。
如何にも見事な飛躍ではないか。
「あさまし、あさまし、あさましは、どこにをる。あさましは此処になる、このさいち。あさまし、あさまし、あさましが、くよくと。あさまし、あさまし、あさまし」と、いくら「あさまし」を連発しても尽きぬほどの、「このあさましの才市」が、
そのことごとくを奪い去れて、この世界とともに、絶対の「なむあみだぶつ」に転化してしまったのである。
「あさましい」と、罪を悲しむ面と、その私こそが、仏の宿る「なむあみだぶつの命である」と喜ぶ面が、同時成立なのです。
「浄土真宗とは、「自己内省」の教えですね。」とか、「仏教は哲学ですよね。」と言われることがありますが、
観念で理解する人にこの世界は開かれません。
「分かった」と理解する中ではなく、「分からないほど大きいものだ」と包まれていく中に、浄土真宗の他力信心はあるのです。
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