【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙④~キリストは妙好人?~
前回は、三戸独笑さんと、香林保一さんの問答を通して、鈴木大拙氏が感動した妙好人の境地を窺いました。
今回は、p21~「1-3_キリストは妙好人である~『父』と『親』」を読んでいきます。
ある意味で言えば、キリストもまた妙好人の一人である。
「天地の主なる父よ、われ感謝す。これらのことを、かしこき者、さとき者にかくして、みどりごに顕したまえり。父よ、然り、かくの如きは御意(みこころ)に適えるなり。すべてのものは、我が父より委ねられたり。子を知る者は父の外になく、父を知るものは、子・・・の外になし。」(マタイ伝及びルカ伝より) このようなことをいうものは、学者でもなければ、また客観的に宗教を見ているものでもない。(中略)
本質的には、彼もまた妙好人である。「子を知るものは父で、 父を知るものは子だ」というのは、親鸞聖人が「我一人がためなりけり」というのと、かわらぬ。 それから妙好人が「如来様は自分のために、これほど御苦労なさったか」といって、つくづく「親さまのお慈悲」を感謝するのもまた同一心理の動きである。これは後章でもう少し言い触れておくが、キリスト教と他力教とは大いに似たところがあって、また大いに異なるところがある。神を父とし、自分を子とするキリスト教は、弥陀を親とし、自分を子とする他力教と、全く同じところを狙っているといわれ得る。が、前者の父と後者の親とは決して同一の感情を表わしてはいない。日本で親といえば、父と母とをあわせた人格の観念である。父の愛は母のほどに本能的絶対性をもたない、多分の倫理性を具えている。(中略)
母の愛に対しては子は無条件に屈服する。母の胎内にいた時から、懐で乳房にすがった時を忘れないのが子である。(中略)他力宗の人達が弥陀を親と呼ぶ時、父性よりも母性の心持が多く出ている。弥陀の懐に飛び込むとか、その愛の前に無条件に個己を空しうするとかいうのは、みなそれである。日本人の親に相応するものは、キリスト教者にはないようだ。父はあり母はあるが、親はない。日本的・他力的なるものに至って始めて親が出て来た。
特にキリスト教の父は同時に主である。他力教には主の観念がない。父ではかど(角)がとれぬ、親でなくてはならぬ。弥陀には主らしいものは寸毫も感ぜられぬ。弥陀は絶対愛である。これは衆生の方から発動させるのでなくて、弥陀の方から自然にこちらへ当って来るのである。こちらは逃げる、 向うは追いかける、いくら逃げても助けるという親である。それでこちらがひとたび弥陀に向ったら最後、逃げ道も隠れ穴もないのだ。これが他力宗(浄土真宗)の教である。キリスト教では、神の怒りに触れると、こちらの魂は永遠に救われぬ、消えぬ火の中にほおり込まれてしまう。神とわれ(我)との関係は父子でまた主従である。弥陀と衆生とは親と子である。この親はいかなることがあっても子を罰するということはない。 他力教は純粋宗教性で充たされているといってよいが、キリスト教には倫理性が多分に入っている。が、その最も宗教的なところでは他力教とその揆を一にするものがある。エックハルト(1260~1328)の説教集の中に、バイブルの一句を賛題にしたのがある。「ちょっと、それで汝等はまたわれを見ず」(ヨハネ伝より)というのであるが、エックハルトはそれを自分一流の見解で説明する。曰く、「ちょっと」とは何か。少しのことでもわれらの心に残るものがあると、それは神を見る眼の翳(くもり)どなる。空間の最小なるものはここである、時間の最短なるものは今である。この今もここもなくならぬと、神は見られぬ。これがエックハルトの所言である。これに似たようなことをマダム・ギョン(1648~1717)もまたいっている。曰く、「真理は二つである、全と無である。神は全であり、吾等は空である。此の空無の故に全なる神が吾等の心を占領する」このような提言は大抵の神秘家の文書中に見られるのであるが、仏教でもこれと同じことを説く。曰く、「自力の力がつきる時、他力が全面的に吾等の心を占領する」と。ただし、他力宗では自力を絶対無力にしているから、他力は始めからそこにいたことになるわけだ。
※適宜現代語に改めています。括弧は筆者。
キリスト教と比較しながら、浄土真宗について語られます。そこで、イエスキリストもまた、妙好人であると語られます。神である父と一対一で出会う宗教的な境地は、阿弥陀仏と真向かいで出遇う妙好人の境地と同一だと、鈴木大拙氏が考えられていたことが分かります。
仏教とキリスト教との違いを質問されることが時々あります。私は、いつも二つの回答を思い出しながら答えます。
一つ目が、浄土真宗本願寺派司教の、紅楳英顕氏の回答です。
※動画は別の話題ですが、ぜひご覧ください。
私が、直接、紅楳先生のご法話を御聴聞した時に聞いたものです。
Q「仏教とキリスト教との違いは何ですか?」
A「仏教は、仏に成る。キリスト教は、キリストにはならん」
仏教は、仏様の教えを聞いて、仏様になる教えです。大慈悲をもって、今度は私が他者を救済していくのが、仏様の教えを聞くということです。
またもう一つ、思い出す回答が、元浄土真宗本願寺派総合研究所所長の丘山新(願海)氏の回答です。
※動画は別の話題ですが、ぜひご覧ください。
こちらも私が、直接、丘山先生のお話を御聴聞した時に聞いたものです。
Q「仏教とキリスト教との違いは何ですか?」
A「神様は、地獄に堕ちたものは救わない。仏様は、地獄にまで来て救う存在だよ。」
録音していたわけではないので、正確ではないかもしれませんが、私はこのように先生の口からお聞きしました。違い目を言えばこのような表現も可能なのでしょう。
鈴木大拙氏も、浄土真宗とキリスト教徒の共通点を述べながら、また異なる点を明かしていきます。「神を父とし、主とするキリスト教」と、「弥陀は親で絶対愛とする浄土真宗」と表現されます。
神と私との関係は父子で、また主従であるため、神の怒りに触れるとこちらの魂は永遠に救われない。しかし弥陀と衆生とは親と子である。この親はいかなることがあっても子を罰するということはない。 他力教は純粋宗教性、キリスト教は倫理性が入っている点が異なると述べられます。
逃げても逃げても向こうが追いかける。逃げ道はない。隠れ道は無いのが、浄土真宗です。しかし確かに、鈴木大拙氏が紹介している、エックハルトや、ギュイヨン夫人の言葉は、浄土真宗の感覚にも近いように思えますね。
最後にもう一つ、真宗大谷派の、武田定光先生の動画を紹介します。この方も、「キリストは妙好人だ」という表現をとられます。鈴木大拙氏の言い方と、全く同じではないと思いますが、ぜひ御聴聞してみてください。
“【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙④~キリストは妙好人?~” に対して1件のコメントがあります。