【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉓~苦しみの後~
前回は、「才市さん流の喜びの表現」思いを巡らせました。
今回は、p106~「4-6_才市の信仰内容~苦しみの後~」を読んでいきます。
真宗に自然法爾があるのがわからぬといって、時々問題になったと聞いている。果して然るか否かは知らないが、自分としては何も問題にすることはないと信ずる。
才市もいうように、「おやのじひ」が自然なのである。「じひ」とか「おたすけ」とかいうと、何となく作りつけの感もしよう、 計らいの心があるかに思われもしよう。が、そう思うのがまだ計らいに囚えられているからである。
他力は無礙の一道で、その運行は自ら然るのである。それをわれらの方で不自然ならしめたので、 他力もまた不自然なように感ぜられて来た、それはもっての外の事である。才市は「ひとは、うきよの金儲け、わたしや、六字の金儲け」というが、浮世の考えでは六字の世界の消息は窺われぬ。 地獄の沙汰は金次第であろうが、極楽浄土は、如何に金をつんでも、知性の分析を重ねても、それでは手に入れられないのである。
「自然法爾」は、前回のブログで触れましたので説明は省略しますが、この概念は、かなり人気があります。
人気があるというと、語弊があるかもしれませんが、親鸞聖人を分析した評論家などが好んで使ったのです。(吉本隆明さんなどがその筆頭かと思います。)
私も、法事の席で、ご門徒の方に言われたことがあります。
ご門徒「私、浄土真宗の、自然法爾と言う点が、好きなんです。」
他にもたくさんの方がおられたこともあり、「こりゃまた説明の難しい所を。。」とも思いましたが、話すにつれて、やはり、他力の世界は奥深く、心強いなと感じました。
私の計らいを、問題にしない世界なのです。
善悪、是非、好悪。
これらが問われない救いです。私よりも私を問題にした仏様のお慈悲が、「なもあみだぶつ」なのです。
これが、上記の鈴木大拙氏が言う「おやのじひ」ですね。誰にも邪魔されることのない、比較の必要の無い喜びの世界を、才市さんは、「ひとは、うきよの金儲け、わたしや、六字の金儲け」と表現されていますね。
わたしゃ六字の金もうけ。
この軽やかな言葉遣いが良いですね。才市さんが、この言葉を私に語り掛けてくれるときは、穏やかに、ニコッと、微笑みながら語ってくれるような気がします。お浄土での初対面が、楽しみです。
その、計らいの必要の無い世界について、以下のようにも歌われています。一見、正反対の歌のようにみえますが、表裏一体です。
あく(悪)にあく、あくをかさねて、娑婆でもつくる。あさましいとわ、みなうそよ。
をそ(嘘)だ、をそだ、をそだ。
わしがなみなあくだ。(私のものは皆悪だ。)
えい(良い)もわるいも、みなあくだ。
煩悩によって、人を傷つけながら自分も見失う。恥ずかしい身の上ではあるが、そうと知らせたのは、自然の道理です。
都合によって、どこまでも、自分を中心にしか据えないこの私を、大慈大悲の仏にすると、阿弥陀様は誓ってくださったのです。その仏様が、今、「なもあみだぶつ」と、全存在に、はたらきかけています。



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