【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙㉒~自然法爾~
前回は、「条件の付かない救い」について考えました。
今回は、p102~「4-5_才市の信仰内容~自然法爾~」を読んでいきます。
はじめに、タイトルの「自然法爾」ですが、「じねんほうに」と読みます。親鸞聖人が
行者のはからひのなきをもって、この法のとく(徳)のゆへにしからしむといふなり。すべて人のはじめてはからはざるなり。
と仰るように、人間の計らいの無い、阿弥陀様の願いのはたらきを指します。厳密にいえば、親鸞聖人は、「自然」と表現されており、「自然法爾」と、熟語にはしていません。
今回は、才市さんの詩を中心に紹介する回になりそうです。それにしても、多すぎる数の詩を残したのが、才市さんです。これでも、散逸したものも多いそうです。一体、どれほどの喜びがあったのか、書きつけたいほどに溢れるその喜びについて、ますます気になります。
それを今回も窺ってまいります。
さいちにや、なんにもない、よろこび、 ほかにわ、なんにもない、 ええも、わるいも、みなとられ、 なんにもない。
ないがらく(楽)なよ、あんき(安気)なよ。 なむあみだぶに、皆とられ、 これこそあんきな、 なむあみだぶつ。
もう一つ、紹介されます。
さいちや、このたび、しやわせよ、 あくもとられ、自力も取られ、 疑もとられ、みなとられ、
さいちがしん正(身の上)みなとられ、 なむあみだぶつをただ貰うて、 これで、さいち(才市)がく(苦)がないよ。 これが浄土にいぬるばかりよ。
南無阿弥陀仏を恵まれての喜びを、才市さんは、「楽」「安気」「苦がない」と表現されます。
才市さんなりの、喜びの表現ですね。
そしてその喜びの、中身を窺うと、「なんにもない」と言われます。
しかし、良いも悪いも、皆、なもあみだぶつに、取られたとは、一体どういうことなのでしょうか。
「良い・悪い」とは、我々人間側の意思の話です。
「これが良い」「これは悪い」と、物事を分別して、切り分けて、世界を見ていきます。しかし、良いとか悪いという、物事を分ける延長に、浄土はありません。
悟りの仏様は、善悪を超えて、平等に届いてくださいます。
これが、自然法爾と表現される世界です。そのお慈悲を頂く時には、私の意思は関係なかったな。という喜びの表現であろうと頂きます。
仏様の胸の中に、大の字で寝っ転がり安心して呼吸するイメージでしょうか。
これについて、鈴木大拙氏は以下のように述べます。
何もかも阿弥陀に取られてしまえば、自分は赤裸裸である。これを自然とも言い、また「何ともない」ともいう。おこったり、泣いたり、とんだり、はねたりすると、甚だ自然でないようにも考えられる。即ちわれらの心は、煩悩の巣窟であり、地獄必定だとすると、何だかそれは当に然るべからざるもののように感ずる。しかし地獄必定とすれば、それが却って自然なのではないか。踊ったりはねたりもまた「なんとなく」というところから出るものではなかろうか。ただ地獄必定の念に縛られていると、堕ちてはならぬ、堕ちては困るということにもなろうが、始めからそう極っていれそれに安住することによって、却って水火の地獄も「安禅は必ずしも山水を須ゐず」でよいわけである。泣いて、わめいて、喜んで、狂って一生を送ってもまた、そこに安養浄土が展開するのではなかろうか。
親鸞聖人が述べたように、「地獄は一定すみかぞかし」(「悟りに至る清らかな修行をできない者の居所は、地獄以外にない」の意)の境地に至っていたからこそ、この赤裸々な境地にいるのだと述べます。
これは、ただの諦めではなく、なもあみだぶつに出遇って初めて知ることのできる、「諦め」であろうと頂きます。
この私がどうこうと、計らう話ではなかったな。
自分がどれほど自分を見失うも、私を見失うことのないお慈悲に出遇うその喜びを、才市さんは「なんともない」と言われたのでしょう。
幸せなことです。
注意してください。「しあわせだ」と思うことが条件でもないのです。条件の要らない世界を恵まれる豊かさを語っているのです。

