【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉖~波乱万丈。みな一つ~
前回は、浄土真宗の用語である、「機法一体」をテーマに考えました。
今回は、p116~「4-9_才市の信仰内容_波乱万丈 みな一つ」を読んでいきます。
わたしゃ、あなたに、をがまれて
たすかうて(たすかって)くれと、をがまれて
ごをんうれしや、なむあみだぶつ
一見、理解しにくい詩ではないでしょうか。
例の如くですが、才市さんは、仏様と対話しながら詩を書いています。ですので、ここの「あなた」とは、仏様を指します。
「たすかってくれ」と、阿弥陀様の方が頼んでいるというのです。
普通は、我々から「助けてくれ」と頼むと思いませんか?
浄土真宗は、そのような救いの形ではないのです。ここが面白いところです。一般の宗教とは、救いのありようが全く違います。
阿弥陀様の方が「救いたい」「助かってほしい」と、慈悲の心から願いを起こした結果が「南無阿弥陀仏」の姿です。
だからこそ、蓮如上人は、こんな表現を取ります。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。
これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。(『御文章』)
南無阿弥陀仏とは、手段ではなく、結果だったのです。
これを初めて教えてくださったのが、法然聖人・親鸞聖人でありました。
またまた、理解しがたい才市さんの詩が紹介されます。
如来の御姿こそ、 かかるあさましき、わたしの すがたなり
なむあみだぶつ、 なむあみだぶつ。
「如来の姿?が?わたしのすがた?」「あさましきわたし?が?如来?」となりませんか?
ここが、浄土真宗にしか表現できない世界ではなかろうかと私は思っています。鈴木大拙氏も「キリスト教の人達は、このようなことを言い放ち得るかどうか」と言葉を誉めています。
この言葉の背景を窺ううえで大事になるのが、前回紹介した「機法一体」(きほういったい)や「名体不二」(みょうたいふに)という概念なのです。
機法一体・・・機である私と、法である阿弥陀様は、別々の存在ではないということ。
名体不二・・・名号である、南無阿弥陀仏が、阿弥陀様そのものの姿であるということ。
他力教では、名体不二は、法の方、体の方から成就せられるものと説くのである。
これを学者の論議の問題にすると中々に容易ならぬものがあり、また従って何時結著するかわからぬようにもある が、それを才市にいわせると、如何にも無難作である。
「なむわわたしで、あみだもなむで、 なむもあみだも、なむあみだぶつ。」
救われる存在と、救う存在とが、別に存在するわけではないのです。この私の体の中に、命の中に届く存在が、阿弥陀如来と言う仏様でありますよ。お念仏でありますよ。と言う意味です。
阿弥陀様とはどこおるか。
この私を除いては、存在できないのです。ここが、浄土真宗のご法義の核です。


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