【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉕~機法一体~
前回は、妙好人、才市さんの詩を通して、浄土真宗で大切にされる、「平生業成」について考えました。
今回は、p111~「4-8_才市の信仰内容~おがまれておがむ。機法一体~」を読んでいきます。
「機法一体」は、浄土真宗のキーワードでもあります。鈴木大拙氏がそこに、何を読み取ったのか、探っていきましょう。
すべて才市の如き妙好人の言説に特に力あるものを感ずるのは何故かというに、自己の内面生活がそのままに描き出されるからである。(中略)
霊性的自覚の生活に「学問」や智慧才覚が喜ばれないのは、 そのためである。学問もとより斥くべきではないが、それに囚えられてはならぬ、これは今さらいうまでもないことである。禅者の言葉に「教壊」というがある。これは、教育で却って人間が損われるの義である。物知り顔になって、その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であるといわなくてはならぬ。俗人よりも僧侶が、却って不信心で、無関心で、為法の精神に欠如たるものの多きも、つまりは「教壊」の現象であろう。『御文』さまにも、坊主の不信心が引合いに出ているのも、この故である。
妙好人への賛辞と、知識理解への危うさへの言及がありますね。
妙好人の言葉の力強さの背景には、内面生活がじかに現れていると言います。
確かにそうですね。そもそも、人に見せようとして、書いてませんから。そこに下心は介入しません。
「教壊」
頭でっかちを誡める言葉だと頂きました。
「理解しています」と、人に教える時、もうすでに、上から目線になっていること、私にも経験があります。
蓮如上人の言葉を紹介します。

「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。」
『蓮如上人御一代記聞書』
「分かった!」と言った時には。もうそれ以上の知識は入りません。
「分からないほどに大きい」と仏様を仰ぐときに、ある意味では、仏様に出会っていると言うのでしょう。
それを、浄土真宗では「不思議」と言うのです。不思議とは、分からないことを意味するネガティブな言葉ではないのです。
知識では計れないほどに大きな存在に包まれている喜びの表現なのです。
ままにならの(ぬ)
ままに正をてて(しようとしても)
ままにはならの(ぬ)。
ままになるなら、月のまるさも、かげはせぬ (かけはせぬ) 。
なむあみだぶの、ままにとられて。
思い通りにしようとしても、そうはいきません。思い通りに行くなら、満月のままにもなるはず。しかし時は移ろいゆきます。
南無阿弥陀仏のはたらきは、「私達を独りにはしない」「慈悲に包んでみせる」と、今働いているのです。その働きのままに救われていくことを「救いが実現する」ともいうのです。(はたらきは、「用き」と書かれることもあります。)
それを別の言い方ではこうも表現しています。
なむあみだぶわ、みだのいき、
わたしゃ、あなたのいきにとられて、 なむあみだぶつ。
この口に頂く、お念仏とは、ただの言葉ではないというのです。
お念仏は、弥陀の息。
その息にとられるというのです。一体どういうことでしょうか。
お念仏してみてください。
「南無阿弥陀仏。なもあみだぶつ。なんまんだぶ。なむなむ。」
私の声でしかない。しかしそのおおもとには、願いがあったと大事にするのが浄土真宗です。
お念仏の源流には、阿弥陀様の「あなた一人独りにはしない」と立ち上がった本願の結果だったのだと、感動したのが、親鸞聖人でありました。
それを、「他力」「他力本願」ともいうのです。これを、機である私と、法である阿弥陀様が、「一体」であることを「機法一体」と言います。
とうことはですよ。
とうことは、他力の「他」とは、他人のことを指すのではなく、阿弥陀仏という仏様を指す言葉だったのです。
「他人任せ」というのは、本来の意味からすると、誤用なのです。
そのことを厳しく、言い続け、関西テレビから着信拒否をされたという噂もある、稲城選惠和上の法話を最後に乗せます。本日もようこそでした。
〈参考〉



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