【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉛~娑婆と浄土~
前回は、「ままならぬもの」をキーワードにして、宗教的な問いを考えました。
今回は、p135「信仰に入るまで」~娑婆と浄土~を読んでいきます。
ここで気のつくことは、佛教はどの宗派でも、煩悩とか妄念、即ち罪業なるものを、敵視しないことである。敵視というと妙に聞えるかも知れぬが、つまり煩悩などいうものを目の上の瘤のように考えて、これを亡ぼさないと成佛は不可能だということにしていないのである。
面白い言い方ではありませんか?
煩悩や罪業を、敵視しないとは、いったい何を意味するのでしょう。
インドでお釈迦様が説かれた仏教(これを上座部仏教といいます。)では、煩悩を滅するのが第一義です。煩悩を滅して、悟りを開くというシンプルな教義であったと言えると思います。しかし、時代が下り、お釈迦様が入滅され、大乗仏教運動が起こった中で、仏教に広がりが生まれました。その究極の形が浄土真宗といっても過言ではありません。
煩悩即菩提。
煩悩を断ぜずして涅槃を得る教えにおいては、煩悩に対する受け止め方も変わってきました。
「煩悩あるが故に、如来の慈悲がはたらいた」と考えた時には、仏様の救いに出会えるのは煩悩のお陰であった。と、言う世界が開かれるのです。
煩悩を肯定はしませんが、「おかげさま」と表現したのが、ここで何度も紹介している、才市さんでもあります。
さいちのたのしみや、なにがもと。
妄念のくよくよがもと、
これに出来たがなむあみだぶつ。
そのけ、(だから、)あなたらちでも、
妄念を見て悔みなさんな、
くよくよ見て、悔むものは、ばかのををばか。
妄念のくよくよが、私にもあります。
下を向いては落ち込み、過去を振り返っては後悔することもありますが、そのくよくよが、楽しみのもと。南無阿弥陀仏を味わう縁でありましたと、才市さんは喜んでいるのです。
これこそ、妙好人、といった表現であるなと、拝読しました。
最後にもう一つ。
さいちゃどこにねてをるか。
しゃばの浄土にねてをるよ。
をこされて、まいる、みだの浄土に。
南無阿弥陀仏を味わう人は、弥陀の懐の中、寝ていることを楽しむのです。
動画は、上座部仏教を大切にしている、古舘伊知郎さんです。



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