【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙⑮~浅原才市の詩を通して~
前回は、「霊性的自覚・浅原才市」と題して、才市さんに対しての、鈴木大拙氏の考えを窺いました。
今回は、p41~「2-2_霊性的自覚の世界‐浅原才市‐人間の罪悪感と倫理‐他力宗と罪悪感」の続きで、才市さんの詩を読んでいきます。

くちのはば(口の幅)が 二寸のはば(幅)で 嘘を言って ひとをだますと 思うておりましたが それではなくて
わたしはまことに あくにん(悪人)でありまして せかいのような おおきなくちをもって せかいのひとを だましてをります
わたしゃ せかいにあまうた(余った)あくにん(悪人)であります
あさましあさましあさましあさまし
※適宜、現代語に改めています。括弧は筆者。
宗教的、懴悔のような思いが伝わってきます。
これを、鈴木大拙氏は、人間性のどん底からくる懺悔であるとします。天地と同じ大きさになって、宇宙そのものと同じ大きさで、「嘘」と表現する。天地と一つになって、自らを省みている歌です。
ありがたいな ごをん(御恩)おもえば みなごおん
「これ、さいち なにがごおんか」
「へえ ごおんがありますよ。このさいちも ごおんで できました。
きものも ごおんで できました。
たべものも ごおんで できました。
あしにはく はきものも ごおんでできました。
そのほか せかいにあるもの みなごおんで できました。
ちゃわん はしまでも みなごおんで できました。
ひきば(仕事場)までも みなごおんで できました。
ことごとく みな なむあみだぶつで ござります。
ごおん うれしや なむあみだぶつ。
※適宜、現代語に改めています。括弧は筆者。
先の「あさまし」とは対照的に、「御恩」がここでは語られます。
「全て、御恩で出来ている」という、一見とっつきにくい、理解しにくい表現ではありますが、才市さんの眼には、ことごとく、万物は南無阿弥陀仏であるという、喜びがあったのです。縁によって成り立ち、不思議な御縁によって、自分の今の生活があるという感動の表現ではないでしょうか。
こんな子が でんなちいうのに(出るなと言うのに) またでた。
出どこがないので 口から出た。
なむあみだぶつと くちからでた。
また口から出てきてしまった。お称名。阿弥陀仏という仏様は、「南無阿弥陀仏」の名前になって、どんな命にも至り届くとお誓いくださいました。その仏様が、他のどこでもない、このわが命の中に、「南無阿弥陀仏」とご一緒し、口から溢れてくださるお称名を喜んだお言葉です。
「浄土真宗は、修行が要らんから楽で良いね。」
「浄土真宗には行が無いんですよね?」という、誤った意見を聞かれることが、時たまあります。
いいえ、浄土真宗には、立派な行があります。
それも、ただの行ではありません。「大行」とも言われる、如来回向の大行、「南無阿弥陀仏」と称える行を大切にします。そのお念仏を通して、亡き方の命にも、自らの命にも向き合っていくのが、浄土真宗です。
わしが ねんぶつを となえるじゃない。ねんぶつのほうから わしのこころにあたる、ねんぶつ。なむあみだぶつ。
そしてその、お念仏とは、私が作り上げるものではなく、仏様のほうから来てくださったものだった。
名号、南無阿弥陀仏が、「私の心にあたる」という表現で、他力のお救いを語ってくださっています。
私が称えていることに間違いありませんが、その根底には、こちらをめがけて向かってきた、仏様の側のお救いがあります。

写真は鈴木大拙氏
やみが つきになるこた できぬ (闇が月になることは 出来ぬ)
つきにてらされ つきになる
さいちがほとけに なるこた できぬ
明をご(名号)ふしぎに てらしとられて なむあみだぶつ なむあみだぶつ
※適宜、現代語に改めています。括弧は筆者。
月を月と知ることができるのは、月の方がその居場所を知らせるからです。
こちらから懐中電灯で探す必要はありません。
南無阿弥陀仏の仏様の居場所も、知らせるのは、南無阿弥陀仏の側であったと喜ぶのが、浄土真宗であります。
インドでは、仏教はあまりに抽象的思索の面に走りすぎて亡びた。幸いに漢民族に間に拡がってきて、唐宋時代に禅となった。それがついには、文学的表現に憂き身をやつすようになった。それがかえって、仏教的体験の本質的なるものを失脚させた。
日本にわたった仏教は、はじめは抽象的領域を出なかったが、鎌倉時代になって純粋に日本的となった。インドの仏教でもなければ、中国の仏教でもない。ことにそれが、浄土真宗になるに至って、日本的なるものを大いに発揮させた。(中略)日本的になって、実に世界性をもつようになったというのである。(浄土)真宗は、この世界性の故に、日本的霊性的自覚として、他の世界的宗教と併存して、人間性の豊富化に役立つのである。
その実例の一は、才市などのうえに、目も鮮やかに現われてくる来るのである。妙好人は、一即多、多即一ともいわず、矛盾的自己同一ともいわず、危機神学の弁証法だともいわず、平平淡淡として、日常生活そのものの中に、霊性的自覚の境地を何事もなく語り去るのである。(p52)
世界共通の、人間における霊性的な感覚の眼を開かせるのが、浄土真宗であると述べられます。
そこには、難しい哲学用語は並ばない。日常の言葉を通して、詩を通して、大事なことを伝えるのです。
さいちが たのしみや なにがもと。もをねん(妄念)のくよくよがもと。これにできたが、なむあみだぶつ。
そのけ(だから)あなたらち(あなた達)でも、 もをねん(妄念)をみて くやみなさんな。くよくよみて、くやむものわ、ばかのををばか。
妄念、煩悩は、この心から消えません。人と比較し、自分の居場所を探しながらさまよう毎日です。
しかし、その「くよくよ」は、悲しみや迷いではあるけれども、同時に、南無阿弥陀仏を味わう、楽しみのもとでもあると言うのです。
私を心配し、迷いを心配したのが、南無阿弥陀仏の、基(もと)でした。
その、くよくよを見て、ただただ悔やむもの、悲しむ者は、「馬鹿の大馬鹿」と表現されています。
いつも、くよくよしがちな自分に、才市さんが、喝破してくれているような気持になります。
様々なものを抱えながらしか生きていけないのが、私達です。時に、悲しみを内に抱えながら生きていかざるを得ません。しかし、その悲しみこそ、その迷いこそが、目当てでありました。



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