【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉘~罪業感~

前回は、浄土真宗の救いの躍動性、「分からない」程に不思議で広い世界を考えました。

今回は、次章へ入っていきます。p127~第5章「信仰に入るまで」~罪業感~を読んでいきます。

学問するものの立場から見ると、才市はどうしてこれほどまで深刻に宗教的体験の核心に透徹するようになったかということが知りたくなる。

何が彼をしてこれほどまでに法に一身をゆだねしめることになったか。彼は如何なる動機でこれほどまでに心を聞法に打ち込むことになったか。即ち彼の生活経験のうちに、彼をしてこの道を進ましめるより外なからしめたものは、何であったか。

(中略)

彼の自己反省は尋常一様のものではないのである。

別に哲学的思索というものをなさない彼は只管に感性・情性の上で反省の途を辿り進むのである。それ故、それだけ彼の反省が上に内向し、「一真実」の面に注がれて行くのである。

改めて、才市の宗教的感性をたどるがごとく、思索を進めていきます。

鈴木大拙氏は、その自己内省の深さに驚きつつ、それは、真実を仰ぐ姿勢そのものであったことを述べ、次にこんな詩を紹介します。

つみつくり、つみつくる人こそ佛なり。つみつくらざる人わ地獄なり、 ちしきのをすゑをきかのから。

一見、理解しがたい詩ではありませんか?罪を肯定しているかのようにも聞こえます。

しかしこれは、世間でいう、刑罰のことではありません。

宗教的悪。

煩悩のことを指して、その煩悩の存在である自分と出会っていくことを歌われたものです。

なぜかというと、仏様が目当てにしたのは、仏に成ろうともしない、自分のことしか考えない、煩悩具足の存在であったからです。

「具足」とは、簡単に使いますが、見過ごせない概念でもあります。

具足とは、「後から荷物になった」ものではないということです。

純粋な私がいて、煩悩がたまたま降りかかってきて、抱えているのではないのです。煩悩で出来あがっているのが、私であったというのが、「煩悩具足」という言葉です。

厳しい概念ですね。しかし、その者こそ、「仏」であり、罪作らない者は、地獄だというのです。

なぜか。

お慈悲を聞き受けない身であるからです。ここに、煩悩さえも邪魔にならない浄土真宗の救いがあるのです。煩悩が問題になっていない人には、開かれない世界ともいえます。

また鈴木大拙氏はこのようにも言われます。

どのような人間でも、苟くも人間と言い得るものには、 ことごとくこれ(罪)があるのである。

罪の感じのないものはまだ人間一疋にならぬと見ても差支えない。 人間の特権または特恵というべきは実にこの罪業感に在るのである。極めて抽象的な表現を用いると、この存在そのものが罪業なのである。

哲学者または学者的思考をやるほどの人は、必ずしもこの存在自覚を罪業感にしないで、矛盾とか、行きづまりとか、不安とかいうことにするであろう。

罪は、他人事ではありません。

人間であるということは、その問題を抱えた命であるというのです。

仏法は、他人事ではありません。私ごとです。

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