【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙⑲~宗教の二元性~
前回は、妙好人、才市さんの言葉に触れながら、信心とは何か・本当の言葉とは何か、を考えました。
今回は、p94~「4-2_才市の信仰内容~宗教の二元性~」を読んでいきます。
人間が人間である限りいつも感ずるところは、その二元性であるという事実である。そうして人開はいつもこの二元性について反省せざるを得ざるように出来ているのである。哲学も科学も芸術も皆これから出るのであるが、特に宗教においてその然るを見るのである。宗教の面に現われて来る二元性は何かというに、それは有限と無限である。この二つが胸の中でもつれ合うと、中々手のつけられぬほどの大騒ぎとなる。哲学の面では知性が主になるので、特にその方向に発達した天稟(てんぴん)を持っていないものにとっては、その方向に沿って深く反省して行くことができぬ。が、宗教の場合では、感性及び情性が主となるので、無限と有限はもっとわが身に近い親しいものとなって来る。 才市の場合では、一方には「あさまし」・「じゃけん」・「ざんぎ」などいう一連の感情があり、他方 では「しあはせ」・「よろこび」・「くわんぎ」などがある。(p94)
ものごとには、二元性があります。
悟りがあれば、迷いがある。
浄土に対して、極楽がある。
善に対して、悪がある。
無限に対して、有限がある。
確かにそうですね。なんらかの概念を考える時、反対の概念を通すと分かりやすいのが我々です。
生と死も、そうですね。
「死ぬとは何ですか?」
「生きていないことです。」
「生きるとは何ですか?」
「死んでいないことです。」
分かったような分からないような、答えではありますが、成り立つ答えでもあります。
知性や哲学によれば、それを反省していくことも出来ようが、こと、宗教においては、わが身に近い、感情に伝わってくるものであると言います。
有限なるものが、無限に出会っていくことが、宗教的世界観でもあります。

次に、鈴木大拙氏は、「十牛図」の話をします。
十牛図とは、中国宋代の禅僧である廓庵(かくあん)によって描かれた、悟りに至るまでの過程を10枚の絵と詩で表現したもので、牛を仏性に見立て、牛飼い(自己)が牛を「尋ねる」ことから始まり、最終的に「牛」と「自分」が共に消えるまでの段階を経て、悟りを開く様子を描くものです。
「十牛図」に出ているように、水牯牛の足跡を見つけても、そのものを捉えることは一朝一夕の仕事でない、まして、それを手なづけて自由自在に駆使することは、普通の人のよくするところではない。「無限」を観捕しても、この「無限」なるものは、有限の中においてのみ意味を持つものである。それ故、これを捕えたということは、却ってこれを捕えぬということになるのである。捕えて捕えず、却って捕えずして捕うということにさえなる。それ故、さす潮とひく潮とで出来ている人間の心は、いつも鏡の如く平かな海を看ているというわけには行かぬ。波を静めてしまえば、海もなくなる。波を騒がせておいて、しかも海を忘れぬところに、悟りがある、なむあみだぶつがある。それでなむあみだぶつを、「ざんぎ」と「くわんぎ」から離して見てはならん。「ざんぎ」に 「くわんぎ」があり、「くわんぎ」に「ざんぎ」があって、そこになむあみだぶつがあるということでなくてはならぬ。無分別の分別、分別の無分別である。仏教生活は、浄土門でも聖道門でも、ここに至って始めてその極致に達する。
面白いですね~。
無限に触れるということは、かえって無限を失うということ。
悟りを捉えるということは、むしろ、捉えていないのだということです。
そこでまた、潮の満ち引きの話が登場します。
この話は、前回も、前々回も登場しましたね。
才市さんのこの表現を、かなり鈴木大拙氏が好んでいたものとみえます。
引く潮は、満ちる潮なしには表現が出来ません。
「ある」とは「ない」ことに支えられているのです。
慚愧と歓喜は、別物ではない。歓喜があって、慚愧がある。喜びがあり、悲しみがある。これらは確かに、二元性を持った表現です。
やなせたかしさんの、「手のひらを太陽に」の歌詞にも言えることですね。「生きているから悲しいんだ。生きているから嬉しいんだ。」
《十牛図のおすすめ図書》




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