【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙⑳~慚愧と歓喜の交錯~

あけましておめでとうございます🎍今年もよろしくお願いします。続けてまいりました読書シリーズ、継続は力なりで今年も頑張ります。

前回は、鈴木大拙氏が語る「宗教の二元性」について考えました。

今回は、p95~「4-3_才市の信仰内容~感性情性の世界」を読んでいきます。

大慈大悲の御恩の中で生きている「よろこび」を感じながらに、人間の有限性から来る八万四千の煩悩をどうすることもできない。実際はこの八万四千の故に、おじひのありがたさが感じられるのであるが、日常生活の圏内では、「ざんぎ」と「くわんぎ」との交錯である。 その時の関係で、一方がよりつよく昂揚せられることがある。ある時は「くわんぎ」の頂上にも登り、また「ざんぎ」の深淵にも沈んで行く、ここに才市の「ひきしお」・「さししお」の生活を窺い得るのである。しかも彼はこの浮き沈みのあるにも拘わらず、いつもそれを離れて、「なんでもない」世界のあることを、いやほどに心得ているのである。

「慚愧」と「歓喜」の交錯が述べられます。

これは、2021年の、真宗教団連合の法語カレンダーの言葉です。梯實圓和上の著作からの言葉のようです。

「念仏者の人生はまさに慚愧と歓喜の交錯」

お念仏を頂く者の人生は、自分の煩悩を恥じる慚愧と、救いを恵まれる喜びの歓喜とが、入り交じり交錯するというのです。

そして、前回も前々回も出ましたが、「ひきしお」「さししお」の話が出ます。潮の満ち引きのように、慚愧と歓喜が交錯します。喜べることが条件ではないのです。信心とはそんなに綺麗事ではありません。

慚愧の身であるからこそ、その私を捨てない存在としての阿弥陀様を味わえる。歓喜の身であるにも関わらず、仏様の生き方とは全く異なる自分を恥じざるをえない。

これが交錯するのです。

しかし、

浮き沈みあっても「なんでもない」世界がある。

こちらの、はからいは必要のない世界を、「なんでもない」と表現されたのだと思います。

この軽やかさが、なんともいえない妙味であるとは思いませんか。

「なんでもない」わけはないのです。人の命なのですから。しかし「なんでもない」

仏願の中の命であることに、居場所を与えられ、安住する境地の表現でありましょう。

最後にもう二つ、才市さんの詩を紹介して終わりにします。

なむあみだぶわ、 月日のごとく、朝日のごとく、 こころほやほや、身もほやほや。 ここで一服しませうや、 おもしろいな。 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。(p98)

「ここで一服しましょうや」

この言葉が、私に語りかけてくれているようです。

「何肩ひじ張っとるんだ。ここで一服しましょうや。」

「さいちよ、われわ、さきの後生わ、どがなかや。(どうなったかな?)あかるうなうたかや。(明るくなったかな?)」

「いいやまだ、あかるうなりません。やつぱり昔の通りでありません。」

「それではつまらんでわ、ないかへ。」

「わしが後生わ、如来さんの、ええよにしておいてくださるでな、わたしやお手をあふせて(合わせて)、なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。」

命の問題、後生は明るくなったか?

明るくならないままに。

それではつまらんではないか。

いいや、「つまらんまま」の世界を恵まれているのだ。

泥の中に七転八倒。喜びと悲しみが入れ替わる、その浮き沈みの現場こそが、仏願の躍動場所であります。

《参考サイト》

真宗教団連合のサイト

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