【読書シリーズ📖】『妙好人』鈴木大拙㉑~なにもない~
前回は、「慚愧と歓喜の交錯」について考えました。
今回は、p99~「4-4_才市の信仰内容~他力の世界 なにもない~」を読んでいきます。
何といっても宗教の世界は他力の世界である。霊性的自覚とは、これを直覚することに外ならぬ。 直覚とか自覚とかいうと、自力の世界を想わしめるのであるが、これもまた詮じつめると他力というより外にはないのだ。知性の上では何もかも自力感で充たされている。霊性的体験に触れたことのないものは、どこもかも皆これで推して行けると考える。やむを得ない。が、これではどうしても窮極の処に到るわけに行かぬ。即ち知性の限りでは、安心は得られぬ、信心に恵まれない、知者の心は何となく不安に包まれざるを得ない。(中略)「ただ手を合はして、なむあみだぶつ」というところが、どこからか出て来る。ここには、喜んで喜ばず、悲しんで悲しまず、「随流認得性」という境地がある。(p100)
宗教的な世界は、必ず他力であるとここで言われます。
知性で考える人は、「思考の先に到達できると勘違いするが、違う」というのです。
「どうしても窮極の処に到るわけに行かぬ。即ち知性の限りでは、安心は得られぬ、信心に恵まれない、知者の心は何となく不安に包まれざるを得ない」とここで言います。
読書シリーズの初期でも言及した「説明型」の世界をここで否定します。知性の延長に、救いは無いと言われます。

(鈴木大拙氏)
「随流認得性」とは、「流れに随って性(しょう)を認得すれば」と読みます。
この語は、禅宗、伝法祖師二十二祖の摩拏羅(まぬら)尊者の伝法の偈だそうです。
心随万境転 転処実能幽 随流認得性 無喜亦無憂
(心は万境に随って転ず。 転処実に能(よ)く幽なり。 流れに随って性(しょう)を認得すれば、喜びもなくまた憂いもなし)
禅宗における悟りを表現した言葉だと思いますが、才市さんのものと、リンクするのだよと、ここで鈴木大拙氏が教えてくださっています。
心はどこまでもコロコロと移り変わるが、本来の自己と出会う者は、喜びも憂いも超えた世界と出会うという意味だと味わいました。
・さいちや、しやわせ、あんじ、煩ふこともなし、 ねんぶつ称へることもなし。 あなた御慈悲にすくわれて、 御恩うれしや、 なむあみだぶつ。なむあみだぶわ、 ねてもなむあみだぶつ。起きてもなむあみだぶつ、 行住坐臥のなむあみだぶつ、働くもなむあみだぶつ、 帳面つけるもなむあみだぶつ、 何の中からもなむあみだぶつ、ざんぎをしてわなむあみだぶつ、 喜んでわなむあみだぶつ、 ざんぎをしてわなむあみだぶつ、 よろこんでわなむあみだぶつ。
・ よろこびをあてにするでなし、よろこびわ、けゑて (消えて) 逃げるぞ。
・さいちゃ、よろこび、あてにするじゃない。 へ、へ、あとに残るはしんじの月。
・ これさいち、よろこびわ、あてにわならの。(ならぬ)けえてにげるぞ(消えて逃げるぞ)。 にげぬ御慈悲わ、親の慈悲。 なむあみだぶに、心とられて、 これにさいちが、たすけられ、御思うれしや、なむあみだぶつ。
才市さんの心が、スーッと伝わってくるような言葉達です。
「念仏称えることもなし」それすらも条件にならない。称え「たら」救うという、条件付きの仏様ではありませんでした。小さかろうが、一つでも条件が付くところには、落ちこぼれていくものが発生します。
昔から、「たい、たら、ぶり、は、往生の妨げ」と言われてきました。
「~したい」「~になったら」「私の心ぶり」をあてにしても救われないよと言う意味です。
どんな命も取りこぼさないべく立ち上がった存在を、阿弥陀如来と申し上げます。
「 何の中からもなむあみだぶつ」どんな瞬間も、お慈悲の無い場所はありません。尽十方無碍光如来。届かない場所が無いお救いです。今この瞬間の私が目当てであったと聞いていく時、この言葉になったのだと思います。
喜び心もあてにならない。自分の心をあてにすると、いつか消えるからです。
コロコロ変わるこの心ではなく、「 にげぬ御慈悲わ、親の慈悲」こちらが忘れようと、こちらを忘れない存在を恵まれることを、浄土真宗のお救いといいます。
そんな仏様に、「 なむあみだぶに、心とられて、 」と、御信心を表現されています。


