【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉞~浄土と娑婆~
前回は、「才市の内生活」として、なぜ才市が浄土真宗のご法義を大切にしたのか。その精神の内側を垣間見ました。
今回は、p161~第8章「浄土と娑婆」を読んでいきます。
鈴木大拙氏は、以下のように述べ、歌を紹介します。
浄土と娑婆との関係が、才市の信仰の上に如何なる様式で取り入れられていたか。これはことさらに取り上げて述べ立てるほどでもないと思う。何故かというに、上来の引用で大体の方向はつけられると信ずるからである。しかし、彼の歌にはこの点を詠んだものがあるので、少し採録する。
これまでに引用した詩でも分かったように、才市は、浄土と娑婆とを、別に分けて見ていませんでした。仏様のはたらく瞬間は、今ここの私の命の中だったからです。
・わたしや、しやわせ、しなずに、まいる。いきさせて参る上をど(浄土)が、なむあみだぶつ
・ねんぶつわ、いきながら得た念仏で、うきよたつまで(浮世、立つまで)もろうた念仏。
・さきのよを、ここでなのしむ、をやのさいそく。をやのこころわ、ふじきなこころ、
浄土真宗の教え、親鸞聖人のお念仏の味わいを通してみるならば、この口に現れる念仏とは、仏様そのものであります。
仏様と、今ここで、出会っていくことを、上の詩で表現くださっているのではないでしょうか。
あさましや、
さいちこころの火の中に、
大悲の親わ、寝ずのばん、燃えるき(機)をひきとりなさる、 をやの御慈悲で。
我々の心は、ふらふら動きます。
しかしこの私にかかり続け、寝ずの番。
決して見捨てることは無いのだ。と、この煩悩の火の中に飛び込む存在がありました。
この存在を、南無阿弥陀仏と喜んだのが、才市さんでありました。


