【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉝~才市の内生活と南無阿弥陀仏~
前回は、働くことを浄土荘厳と表現した才市さんの言葉にヒントを貰いながら、仕事観、宗教観を考えました。
今回は、p150~第7章「才市の内生活と南無阿弥陀仏」を読んでいきます。
「さいちや、ありがたいのが、どをして知れた。」
「わしがつまらんで知れたのよ、をやのをかげ(親のお陰)よ。」
この通りである。「あさまし」・「つまらん」がなかったら、「ありがたい」も何もないのだ。光の多いところに影もまた多い、煩悩が繁るので名号もまたその光を増す。
やみが月になるこた出来の、
月にてらされ、つきになる。
(括弧は筆者)
なぜ有難いことが分かったのか。それは、「私がつまらない人間だからであり、阿弥陀様が知らせたのです」
この言葉も、頷くのは簡単ではありません。

「つまらない人間」というのは、ただのネガティブ発言ではありません。煩悩を抱えた身であり、命を平等に見ることが出来ない身であるという話です。
全ての命を平等に見られないからこそ命に差別をし、自分も他人も他の命も見失うのです。
その、自己中心の命こそを心配の目当てとし、豊かな悟りの領域を得さしめようと、南無阿弥陀仏の六字が届くのです。
このお念仏は、悟りむきだしの言葉なのです。
迷いがあるから悟らせるはたらきが生まれる。「あさまし」「つまらん」が 無いなら、名号も必要ないのです。
影の大きさは、光の強さに比例します。自分の影が見えるとは、それ相応の光がある事実をまた知らせるのです。
だからこそ、次のような言葉も生まれたのでしょう。
さいちがほどけになるこたできの。(なることは出来ぬ)
名号不思議にてらしとられて、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
影を見よ、娑婆の光も影がある。
光りのおかげで影がみゑるぞ。
影を見よ。光明の光りのかげで、影が見ゑるぞ。
浄土の影がこれでわかるぞ。 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
あさましがないならば、
わたしや、をてらに参るま(い)。
あさましが、わしが、しやわせ。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
くよくよも、悲しみにも、意味が与えられていく世界線があるのだと、私は味わっております。



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