【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㊸~有福の善太郎5~
前回も、引き続き、島根の妙好人、善太郎さんを紹介しました。
・「家はどこか」と問われたことに対し、「家は無い。如来の家に置かせてもらっている」と答えた、善太郎さん。
・善太郎さんが不在の時に、訪ねてきた方に対して娘さんが「あなたの後生は明晩まで待たれるのですか?」と返し、共にご法義味わって帰った、そんな娘さんまでいた善太郎さん。
・最愛の牛の臨終のとき、御文章を持ってきて、読み聞かせた善太郎さん。
・住職ではなく、話の苦手な小僧の話も、「末代無智の御文章のようでありがたい」と敬った善太郎さん。
今回もまた、この方のエピソードを紹介します。

国分村あたりのお慈悲を喜ぶ娘が、平素より、嫁ぐなら有福の善太郎さんの近所へ行きたいものだと、ひそかに念願していたが、良縁あって下有福へ嫁いだ。
その旨を善太郎に告げて、何か有難いことを書いてくれと頼んだら、即座に聖人一流章を書いてくれた。
然るに「入正定之祭とも釈し」へ、ほんとの杓子の形を書いてくれた。
これは何かと尋ねると、「諸佛に捨てられたる者をこの杓で救って下さるので、入正定之聚とも杓子と仰せられたのだ。」
ある村の娘がこういったそうです。「もし嫁ぐなら、善太郎さんの近所が良いわ」
旦那さんより先に選ばれる存在。
なにものなんでしょう善太郎さんとは。
今の感覚から言えば、近所に誰がいるかよりも、いかに良い相手と出会っていくかの方が問われる気がしますが、凄いですね。
浄土真宗の家で、善太郎さんの噂を家族から聞いていたのでしょう。「こんなありがたい人がいるんだよ、もしあんたがお嫁に行くなら、そういう所へ行ってもらえると嬉しいわ」
だから娘さんもそう思ったことでしょう。
念ずれば花開く
実際にそうなったそうです。
そこで実際に善太郎さんに挨拶に行った。
「私は、かくかくしかじかの事情でお嫁に来ました。あなたに一目会いたかったのです。そして、ご法義の話、浄土真宗のお話を聞きたかったのです。これをご縁に、よかったら、一筆、お願いできないでしょうか」
と、書を頼んだら、すぐさまササ―っと書いてくれたというのです。
それが何かというと、
「入正定之祭とも釈し」という言葉と、杓子の形を書いた
言葉は、『御文章』の中の、「聖人一流章」を書いてくれた。
前回も登場した、『御文章』ですね。室町時代のお手紙です。

その中に、「聖人一流章」という章があります。こんな文章です。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。
そのゆゑはもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。
その位を「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
この中に登場する、「釈し」を、「杓子」とあてて、善太郎さんが読んだのです。
今でいう、しゃもじ、ですよね。
その絵を一緒に添えて、書いてくれたというのです。
「え?御文章のお言葉と、杓子?どういう意味ですか」
と驚いたのは、書いてくれと頼んだ娘の方。思っていなかったものがそこに書かれていたからです。
それに対して、善太郎さん
「諸佛に捨てられたる者をこの杓で救って下さるので、入正定之聚とも杓子と仰せられたのだ。」
ご飯を救いとる、しゃもじのように、他の仏様が救うことが出来なかったこの私を、救う存在が阿弥陀様ですよ。だから、ここに、「しゃくし」と書いてあるのだ。私をすくおうとしておるのだ。という味わいをしたのです。
文字は間違っています。しかしその味わい、ご法義と向き合う姿勢が尊いからこそ、この話が今に伝わったのでしょう。
「この杓子のようにな、阿弥陀様が、すくいとるんじゃ。」
杓子とは毎日使うものです。
毎日の中に、ご法義を味わい、この聖人一流章の言葉を思い出していたからこそ、この味わいがスッと出てきたのでしょう。
私には、善太郎さんが、「日々の中で味わうんじゃぞ。毎日のご飯のように、このご法義を聞いて、心の栄養を頂き、生き抜いていくんじゃぞ。これから辛いことも悲しいこともあるだろう。しかしその日々の生活の中が仏様の躍動場所なんだよ」と、教えてくれているように、思えてなりません。



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