【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㊺~有福の善太郎7~

前回も、引き続き、島根の妙好人、善太郎さんを紹介しました。

・「家はどこか」と問われたことに対し、「家は無い。如来の家に置かせてもらっている」と答えた、善太郎さん。

・善太郎さんが不在の時に、訪ねてきた方に対して娘さんが「あなたの後生は明晩まで待たれるのですか?」と返し、共にご法義味わって帰った、そんな娘さんまでいた善太郎さん。

・最愛の牛の臨終のとき、御文章を持ってきて、読み聞かせた善太郎さん。

・住職ではなく、話の苦手な小僧の話も、「末代無智の御文章のようでありがたい」と敬った善太郎さん。

・御文章の言葉、「釈し」を「杓子」と読み、自分が救い取られることを喜んだ善太郎さん。

今回もまた、この方のエピソードを紹介します。

三、四人の同行とともに、字野村順興寺へ参詣した。帰途木挽谷(こひきたに)あたりにて、

他の同行が「自分らも善太さんのような有難い身になりたいものだ。そして死んでも善太さんの跡を慕って行かれれば結構じゃがのう」

といえば、善太、後に振り向き立ち止って、声高く、

汝(おまえ)さんらは俺の真似をしたり俺の跡を慕って来たら、それこそ大変だ。この善太は地獄行きじゃで、それより如来様に助けて貰いなさいな。

一同によりおこった念佛の声は、谷川の水音と和し法悦の気分は狭い渓谷に張った。

先にも見てきたように、生前から善太郎さんは、近所でも評判の、ご法義を大事にする御同行であり、妙好人だったようです。

共にお寺参りした人から、尊敬の念を込めて、「あなたのようになりたい。死んでも後を慕いたい」と言われたというのです。

これだけでもすごいですよね。どれだけ信頼されまた尊敬されていたかが垣間見えます。

しかし、それに対する返事がまた有難いので、このようなエピソードとして残ったのです。

普通であれば、

「いや、それほどでも。」と、内心大喜びしながら答えたり、「誉めても何も出ませんよ」とニヤニヤ顔で答えたりしそうなものだと思います。

しかし、善太郎さんは、即座に否定したのです。

「それはやめておけ。大変だぞ。俺の後を慕ってついてきたら、地獄に堕ちるぞ」

と答えたのです。

地獄堕ちの身であると、味わっていたのでしょう。親鸞聖人にもこんな言葉があります。

「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」

行によって悟りに至るなら良いが、どんな行であっても、私に間に合う教えではなかった。心を静めることも叶わない。慈悲の心を起こすことも叶わない。

ならば、自分の行為によって、地獄に堕ちることは必定である。生き物の命を頂き、人を傷つけながらしか生きていけないこの我が身の行き先は、地獄以外にない。しかしだからこそ、浄土真宗のご法義、南無阿弥陀仏の教えしか、私に間に合わないのだという味わいを親鸞聖人が述べた箇所であります。

善太郎さんもこの心であったのではないかと思います。私に救われるわけではない。人間が人間に救われていくのではない。

如来様によって助けられるのだ。

だから、「私の後を慕ってくるようなことはやめておけ。仏様の方を向きなさいよ」というお言葉です。

ありがたいですね。

日常を生きていると、周りにごちゃごちゃ言う人がいます。

皆さんにも、いますよね?

いるはずです。ああいえばこう言うし、こういえばああ言う人。

ただ発言をしたい人。自分の意見を主張したいだけの人。

それらの意見は、取るに足らないことだとは思いながらも、それらに左右されていくのが、我々でもあります。

褒められたらぐっすり眠れますが、悪口の噂なら寝られない時もありますよね。

しかし大事にしたいのは、ゴチャゴチャ無責任に発言する人。あの人たちは、本当に、文字通り向け責任ですよ。

私の命の問題の責任は、全くとってくれないのです。引き受けてもくれないのです。

だから、そこではなく、お慈悲の仏様の言葉を聞いていきなさいという、一連の文章でしょう。

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