【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㊼~有福の善太郎9~

前回も、引き続き、島根の妙好人、善太郎さんを紹介しました。

今回が、善太郎さんシリーズは最終回であります。

・「家はどこか」と問われたことに対し、「家は無い。如来の家に置かせてもらっている」と答えた、善太郎さん。

・善太郎さんが不在の時に、訪ねてきた方に対して娘さんが「あなたの後生は明晩まで待たれるのですか?」と返し、共にご法義味わって帰った、そんな娘さんまでいた善太郎さん。

・最愛の牛の臨終のとき、御文章を持ってきて、読み聞かせた善太郎さん。

・住職ではなく、話の苦手な小僧の話も、「末代無智の御文章のようでありがたい」と敬った善太郎さん。

・御文章の言葉、「釈し」を「杓子」と読み、自分が救い取られることを喜んだ善太郎さん。

・「あなたの後を慕いたい」と言った御同行に対して、「私の後はやめておけ。地獄に堕ちるぞ。如来様に助けられなさい」と言った善太郎さん。

・商売中もご法義の話を長々としたため、商品を高く売らざるを得なかった善太郎さん。

今回もまた、この方のエピソードを紹介します。

をがんでたすけて、もらうにやない、

をがまれてくださる 如来さんに、たすけられて、まいること。

こちから、をもて、(思うて) たすけてもらうにやない、

むこから、をもわれて、(思われて) をもいとられること、この善太郎。

好きな詩であります。

善太郎さんの言葉の中でも最も有名な言葉かもしれません。

こちらから拝み、助けてもらうのではありません。拝ませ、拝まれる阿弥陀如来に、助けられるんですよ。

これが、善太郎さんの御領解、味わいの代表的な部分と言っても、過言ではありません。

浄土真宗は、「他力である」とよく表現されます。

これは、「他人任せ」とは違うのです。他である、阿弥陀様の力によって、どのような状況の命であろうとも必ず救い取られていく特徴を示す言葉なのです。

仏様の側の力であるからこそ、確かなのです。こちらの思いや、はからいは、自分の置かれる状況により、コロコロ移り変わります。

都合の良いときと、悪いときとでは、振る舞いに必ず差があります。

本当に、悲しいことですが、そうなります。

これを、悲しみ、煩悩の深い身であると深く自らを悔いたのが、親鸞聖人でもあります。

その点を、善太郎さん風の言い方では、

むこから、をもわれて、(思われて) をもいとられること、この善太郎。

と言われたのです。

この、軽やかさと言いますか、スッと述べているところが、なんとも鮮やかな気がします。

こちらから思って、助けられるのではない。向こう(阿弥陀様の側)がこちらを心配し、思い続けた結果が、南無阿弥陀仏です。

お念仏を称えるとは、向こうから思われていることを、確認する営みでもあるのです。

「思われて、思い取られる」とは、

向こうがこちらを思い、救い取られることを意味するのでしょう。

こちらがどんな状況にあろうと、願われ続けていると、味わっていけるのです。

今、ここで、阿弥陀様のお慈悲に、思い取られるのです。

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