【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㊷~有福の善太郎4~
前回も、引き続き、島根の妙好人、善太郎さんを紹介しました。
・「家はどこか」と問われたことに対し、「家は無い。如来の家に置かせてもらっている」と答えた、善太郎さん。
・善太郎さんが不在の時に、訪ねてきた方に対して娘さんが「あなたの後生は明晩まで待たれるのですか?」と返し、共にご法義味わって帰った、そんな娘さんまでいた善太郎さん。
・最愛の牛の臨終のとき、御文章を持ってきて、読み聞かせた善太郎さん。
今回もまた、この方のエピソードを紹介します。

近所の家に法座がある、今晩は光現寺の院主さんでなくて、小僧さんだとて、附近の者は参らぬ。
小僧さんならいつもの読み法談で一つ文言だ。
然るに善太郎は必らず参詣する。
近所の者が一つ文 言でも有難いかと尋ねると、「末代無智の御文章と同じようにいつ聞いても有難いよ。」
「近所の家に法座がある」とは、在家の報恩講か何かでしょうか。
現在でも、お寺でなく、お宅のお仏間で開催する法要があります。全国的に、数は減ってきていると聞きます。関東だと、ほとんどないかもしれません。
ご法事や、月参りとは別に行うのです。広島のある知り合い僧侶は、一カ月近くかけて、全てのお宅を報恩講参りするとも聞いたことがあります。
※報恩講とは、親鸞聖人の御命日をご縁とする法要のこと。
その、近所の方の法要に、参加したのです。しかし、近所の方は来ません。なぜかというと、今回そこにお参りに来るのは、住職ではないからです。
ありがたい説法をする住職なら参るが、小僧が来るのであれば、「今日はいいか。遠慮しとこう」と言ったそうなのです。
しかし、善太郎さんは必ずお参りするのです。
それを、近所の方が不思議に思い質問したところ、返ってきた返事がこれです。
この善太郎さんの言葉がありがたいです。
「末代無智の御文章と同じようにいつ聞いても有難いよ。」
「いつきいてもありがたい」
同じ話をする小僧の僧侶ではあるが、それが大切なのだ。変わることのない、絶えず私に響き続けてくださる阿弥陀様の話だから、同じであることがありがたいのだ。
と、その説法も深く味わっていたのです。
常に、変わり続ける私。生老病死の現実の中に、心も体もずっと変わっていく私に対して、変わらずはたらいてくださる南無阿弥陀仏がありがたいではないか。同じ話だからこそ、このご法義の良いところではないか。
確かに小僧は、話は下手かもしれない。しかし、間違いのないご法義の話を、取り次いでくれているのだ。阿弥陀様の心を、常に同じ言葉で教えてくれているのだと、大切にしたのです。
善太郎さんにもあったと思います。まったくありがたいと思えない時が。
「なんや、今日の話は。前と一緒やし、感動もせんし、どこかで聞いたことある言い方やし」
御聴聞が楽しくない時、何とも思わない時は誰にでもあると思います。
しかし、その時に、味わった。
「いや、この有難くないと思う心が私の心や。都合の良いときには、ありがたいと感動し、そうじゃない時には、なんともおもわない。
しかし、そうじゃった、そうじゃった。
私の心がアテ頼りにならないからこそ素晴らしいのじゃないか。良い心だけ往生したらたまったものじゃないぞ。
そうかそうか。この私の心も体も、丸ごと、救ってくださるお慈悲であったな~。そのことを教えてくださる御縁であったのか」
と、小僧さんの話を振り返った時があったんじゃないでしょうか。
そうか、このご縁も、味わっていくご縁でありました。お慈悲の中でありました。どこにおっても、今ここが、お慈悲の躍動場所でしたか。
と味わった結果、言えたのが、「末代無智の御文章と同じようにいつ聞いても有難いよ。」
ということばであったのではないか、と、私は味わいました。
御聴聞を重ねるということは、こうやって味わいが深まっていくこともあるのでしょう。
末代無智の御文章を以下に記します。何度も同じことを聞かせて頂き、自分の命を見つめていくことが大事だと仰った善太郎さんのエピソードでありました。
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
そして、「同じ話」というと、私はこの歌も思い出すのです。



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