【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㊶~有福の善太郎3~
前回、島根の妙好人、善太郎さんを紹介しました。
「家はどこか」と問われたことに対し、「家は無い。如来の家に置かせてもらっている」と答えた、善太郎さん。
善太郎さんが不在の時に、訪ねてきた方に対して娘さんが「あなたの後生は明晩まで待たれるのですか?」と返し、共にご法義味わって帰った、そんな娘さんまでいた善太郎さん。またこの方のエピソードを紹介します。

善太がかねてより飼育しておった牛が病気に罹った。
さながら我子を介抱するが如く、日夜看護してやったが、ついに臨終に迫った。
そうすると牛小舎の入口に御文章をお供して来り、それを読み聞かせ、そして親切に御法話をして聞かしてやった。
大切な牛が病気にかかった。
その子に対して、御文章を持ってきて、拝読し、法話をしたんだそうです。
御文章とは。

室町時代、浄土真宗本願寺派、第8代門主、蓮如(れんにょ)上人が、門徒に向けて教えを平易な仮名書きの手紙(消息)として送ったもののこと。葬儀やお通夜の際に読まれる白骨の御文章などが有名です。
ありがたいですね。
「牛に説法?」と馬鹿にしますか?
おそらく善太郎さんの目には、人間や動物を分け隔てせずに、「仏様の子である」とその命が見えていたんだと思います。
「お前も、命終わっていくんだな。間違わせないと届いてくださる阿弥陀様を、聞いておこうね。一緒にお念仏しよう。お前も私と同じ子供だよ。」
と、その牛の最期に寄り添ったのではないでしょうか。
普段の生活の中で、最愛の牛とも、ご法義の談義をしていたのでしょうね。お前の命も、私の命も、如来のまなざしの中なんだよ。
どこまでいっても、何が起きようと、そこがお慈悲の中なんだよ。
それを聞くために、我々は出会ったんだろうね。お前よ、今日も生きてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。また会おう。
と、命と、命が、生の触れ合いをしていたのだと、私は味わいます。
親鸞聖人はこんな言葉を残しています。
平等心(びょうどうしん)をうるときを
一子地(いっしじ)となづけたり
一子地は仏性なり
安養(あんにょう)にいたりてさとるべし
仏の位に至り、平等心を得るとは、どんな命も、一人子のようにみていくことなんですよ。
これを我々は、安楽なる安養の浄土に往生し悟らせていただくのです。
阿弥陀様の目線から漏れる命はありません。だからこそ、この私が漏れないのです。
私が漏れないということは、目の前の子の方も漏れないのです。間に合いすぎる程に、間に合うご法義であるというのはそういう意味であります。
命とまっすぐに向き合っていけるとは、素晴らしいことです。ありがたいことです。その目線にこそ人は、自らの命のぬくもりを味わえるのではないでしょうか。

