【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㉟~親と子 花嫁と花婿~
前回は、「浄土と娑婆」として、才市さんが表現する、浄土と娑婆の関係を確認しました。
今回は、p166~第9章「親と子 花嫁と花婿」を読んでいきます。
みなさんは、「親と子」と聞いて、どんな関係性を連想しますか?
良いイメージも、悪いイメージも、それぞれにあることかと思います。
浄土真宗においては、よくこの喩えが使われます。それはやはり、他に仏様の慈悲の喩えようがないからです。自分以上に自分を大事にしていく瞬間の多くは、親子の間で見られるものだからです。
親子関係で連想するのは、仏教以外の宗教では、人間愛の代表的なものとして夫婦愛を持ち出すのが常のようである。
キリスト教などでは、花婿・花嫁の関係でキリストと信者との間柄を記述せんとする。
キリスト教においては、夫婦の喩えも使われるようです。父と子の関係が述べられることがありますが、それは、畏敬の対象とされるそうです。
これはキリスト教が歴史的にユダヤ的神の思想に影響せられるところが多いからであろうか、神なる父は畏敬の対象で、他力の親ほどに絶対愛の持主にはなれないようだ。
「全地は主を畏れ、世界に住める凡ての人は主を恐れかしこむべし。主、仰せたまへば、その如く成り・・」
ともいわれるように、親の言うとおり、その厳しさに従っていく面が強いようです。
そう考えると、阿弥陀様の表現には、厳しさよりも、慈愛が強調されるように思います。
うれしや、浄土恋しや、なむあみだぶつ、 浄土の乳わ、なむあみだぶつ、 さいちや此の乳のんでをる

(騰瑞夢先生)
南無阿弥陀仏を母乳に喩えることが、浄土真宗でされます。これに関して忘れられない話があります。
大阪、高槻市の、行信教校に、騰瑞夢(あぐる ずいむ)先生という方がおられました。(騰瑞夢先生 顯性院釋瑞夢 平成16年(2004年)04月12日 ご往生 享年:79(歳))
この先生への、追悼の言葉を、龍谷大学の殿内恒先生が述べておられましたので、それに従い記します。
■繰り返し聞いた言葉
個人的な思い出になりますが、行信教校の学院部で学んでいた時のことです。 当時の私は、十数人の同期生とともに、真宗の教えをまだほとんど何も知らないなか、そうそうたる先生方の講義を受けていました。 その先生方のお一人にいらっしゃったのが、残念ながらこの春にご往生された騰瑞夢先生です。私たち学院部の学生にとっては、どの先生の講義もはじめて聞く内容ばかりで、毎時間、実に新鮮な思いで学んでいたのですが、 そのなかで騰先生から繰り返しお聞きした、耳に残る言葉が二つありました。 その言葉とは、私たちは「阿弥陀さんの前ではみな凡夫」であり、そして「阿弥陀さんのお乳を頂いている」というものです。
■受け取れずにいた私
私自身、「阿弥陀さんの前では凡夫」という言葉は一応わかったつもりでいましたが、「阿弥陀さんのお乳を頂く」という言葉には、何かもう一つピンと来ていませんでした。若さゆえの気恥ずかしさもあり、「お乳を頂く」なんて自分にはあまり関係のない、時代遅れのたとえのように感じていたのです。
それが最近、ふとこの言葉が、これまで思っていたよりずっと大きな、深い内容を持っていることに気づきました。実は昨年、はじめての子供が生まれ、遅まきながら父親の仲間入りをしたのですが、わが子を持つようになってはじめて、この言葉が持っている本当の意味に気づかされたのです。 実をいいますと、私たちが学院部に入った最初の頃、 騰先生の講義は繰り返しが多かったこともあり、他の先生方の講義に比べて新鮮に感じられずにいました。それが、一年が経って卒業する頃になると、先生方のなかでもっとも味わい深い、ありがたい先生は騰先生ということで、同期生の意見が一致していたのです。その時と同じように、言葉に込められた本当の意味が、最初のうちは分からずに、自分が子の親になる時が来るまで、受け取れずにいたのです。 これこそが、私自身の姿でした。あらためて、その時に分かることしか受け取れない、せまい料簡にとらわれた自分の姿を思い知らされました。
■乳だけに育てられる
この言葉を口にされる時、先生はまず「法乳」と板書し、そして「私らは阿弥陀さんのお乳を頂いておるんや」と、かすかに声を震わせながらおっしゃるのが常でした。「法乳」という言葉は、辞書を見るとおもに禅家の言葉として出ていますが、そこでは仏祖から受けた恩のことを「法乳の恩」と示しています。 赤ん坊はお乳を飲んで育ちます。だから私たちが阿弥陀如来に導かれることを、赤ん坊がお乳で育つことにたとえて「お乳を頂く」 というのであり、また阿弥陀如来の恩を、親の恩にたとえてもいるのだろう。はじめは、ただそのぐらいに考えていました。 ですが、ある時わが子の姿を見ていて、ふと「本当に赤ん坊とはお乳だけで育つものなんだな」と思ったのです。お乳の他には水さえもほとんど口にせず、生まれて間もない赤ん坊は育っていきます。その姿を見て、「お乳を頂く」とはこのことだったのか、とあらためて気づいたのです。 煩悩具足の凡夫でしかない私たちには、さとりに向かう一分の善もなしようがない。その私たちをさとりに導くため、阿弥陀如来が本願を成就して浄土を建立し、すべての功徳を六字名号に込めて私たちに回向してくださっている。私たちはただそれを信じて受け取ることで、浄土に往生してこの上ないさとりを開くことができる。 このような、自力無功、全分他力という言葉で示される法義の内容が、「法乳」「お乳を頂く」という言葉に込められていたのです。 さとりへの材を全く持ちあわせていない私たちが、間違いなくさとりを開くことが決定した身となるのは、ただ阿弥陀如来の本願力のみによるのであって、他の何もその材とはなりません。この私たちの姿こそ、乳だけで育っていく赤ん坊の姿に重なるものといえるでしょう。
◼️法乳の恩をいただく
思えば先生のもう一つの言葉、「阿弥陀さんの前では凡夫」というのも、この「お乳を頂く」という言葉と重なるものでした。凡夫とは、自身の姿が仏の前では赤ん坊に他ならないことの表現だったのです。 そのことに思い至った時、先生がこの二つの言葉を繰り返された意味も、私にとって新たなものとなりました。 先生が繰り返してくださらなければ、私には受け取れないままで終わっていたでしょう。繰り返していただいたからこそ耳に残り、時を経て本当の意味を受け取ることができたのです。 この私の姿にまた、凡夫の姿があるといえるでしょう。その時に分かることしか受け取れない、そんな凡夫だからこそ、阿弥陀如来は救おうと思い立ち、名号法を完成してくださったのです。そしてその名号法は、まさに「法乳」と呼ぶにふさわしい、何も分からないままの赤ん坊に等しい私たちを、育て導いてくださる、完全なはたらきを持っているのです。 名号という「法乳」を頂くことは、自身が赤ん坊の凡夫であると気づくことにそのまま重なります。 そして、この頂き、気づくことは、釈尊にはじまり親鸞聖人を中心とする祖師方の恩、そしていまに至るまで伝えてくださった先哲方の恩という他はありません。 「法乳」「お乳を頂く」という言葉を通して、いまさらながら、祖師聖人、そして騰先生の恩が、深く尊くいただかれます。
我々が頂く、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様のお乳を頂くこと。
仏様から見た時、この私は、行く先が分かっているようで何も分かっていない、右往左往する凡夫であります。しかし、だからこそその赤ん坊に、お乳を与えなければいけないのです。
そして、お乳以外では育たないのです。
そのお乳に、育てられていくのです。法乳であります。

