【読書シリーズ📚】『妙好人』鈴木大拙㊳~くくり2~

前回紹介しきれなかった、才市さんの詩を紹介します。

今回も、p186~第11章「くくり」を読んでいきます。まとめの章立てです。

わしのこころわ、せかいのたから、なむあみだふになるたから

わしがこころわ、ちってどもならん

ちらばちれ

なむあみだぶつ

ちるこころ みだにとられて なむあみだぶつ

私の心とは、阿弥陀様が届く場所であります。だからこそ、お念仏だ、この口に来てくださったのです。

お念仏、称えようと思うと自力だ、と勘違いしている方もいらっしゃいますが、違います。「お念仏称えてくれよ」「必ず我が国浄土に生まれ、悟りの仏に成ってくれよ」「間違って苦しい世界に堕ちるんじゃないぞ」と、来てくださるお慈悲の姿が南無阿弥陀仏なのです。※お念仏をしないこともまた、自力なのです。

どこにおってもお慈悲の中、なのであります。

だからこそ、「わしのこころ」が「世界の宝」なのです。南無阿弥陀仏の仏様になっていく、尊く貴重な宝なのです。

言葉尻だけが綺麗な人権的な言葉ではないのです。「命は尊い」という美辞麗句とは一線違うのです。

仏様が承認し、抱き、包む命だから、尊いのです。「御法身」とも言われるのです。(御法身は、お坊さんがよく使う表現でもあります。)

鈴木大拙氏は、この才市の味わいを、「人間から離れる、ではなく、実に人間的になっていくのが他力だ」と、表現します。ご法義を御聴聞し、仏様のお心を味わっていくとは、人間離れの姿ではないのです。むしろ、実なる人間的な姿。嘘偽りや、ごまかす必要の無い人間へとさせていただく営みであるのです。

もう一つ、詩を紹介します。

やまいきたばこは、よいたばこ

こしかけたばこで、らくらくと、

さ、さ、かえりませう、かえりませう。

わがいえかえる、あしのかるさよ、

みだのおくににかえるとおもへば。

なむあみだぶつなむあみだぶつ。

このなんともいえない、軽やかさが良いと思いませんか。行信教校名誉校長・元浄土真宗本願寺派勧学の、梯実圓先生は以下のように述べています。

これなんかも私、好きな歌のひとつでございます。(中略)

山行き煙草はよい煙草

腰かけ煙草でらくらくと

ささ帰りましょ帰りましょ

我が家帰る足の軽さよ

弥陀のお国へ帰ると思へば

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

と。この歌の中には、山行きして帰ってくる、疲れた足を引きずりながら帰ってくる、 才市さんの姿がみえるようです。おそらく途中で木の切り株にでも腰を下ろして、そ して腰からキセルを取り出して煙草を吸うているのでしょう。煙草はキセルでないといけません。巻き煙草じゃちょっとさまになりませんな。一服吸う。とその時、帰る家がある安らぎをふっと思ったんでしょうね。

「我が家帰る足の軽さよ」

妻や子のまつ家へ帰るんだというその帰る家を持っていることの足の軽さ。それがそのままスーッと心の中で転換して阿弥陀さまのお浄土に変わっていく。

この人生の全体が帰るべき「いのち」のふるさとを持っている。わたしの帰りを暖かく迎えてくれる親里、そういう「いのち」のふるさとを与えられている。その「いのち」の故郷にむかって一 歩一歩足を運んでいるというその人生の根源的な安らぎというふうなものがこの詩にはにじみでています。そこで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というお念仏が自然と出てくるわけでございましょうね。こういう歌を彼は詠んでいるのです。

(梯実圓『花と詩と念仏』)

我が家帰る足の軽さよ

この軽やかさ。人生の味わいの鮮やかさ。お念仏を頂き、御聴聞する者にはこの人生観が恵まれるのでしょう。

いのちのふるさと。あたたかく迎え入れられる場所。そこへ向かって、一歩ずつ、歩みを進めるのが、念仏者でもあるのです。

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